天声人語、「沖縄が映す民主主義」を読んで

日本は社会主義国だなと思う。霞ヶ関一党支配の国、中央集権国家・日本。

どこかの国と似ているではないか。その国の国民を我々は気の毒に思っているが。


リタイアして、そして、町へ出て、私は漸く眼が覚め、呪縛から解き放たれたことに気付いて暫くが経つ。かっての現役時代の私には会社自体が社会だった。そこにしがみついた。しがみつかせる制度、終身雇用・年功序列があった。運動会、旅行会などのレクリエーションが行われ、上司・同僚との飲み会が行われた。ここで忠誠心を確認しあったものだ。しかし、そんな時代は私の会社生活の半分を過ぎた頃から変革を始めた。変わった。会社は分社化してさらに小回りの効くスマートな組織体に変わった。大会社志向が変わった。機能的になった。能力主義になって個人の能力評価時代となった。会社はボードの考えで行動するのではなく、世界市場の動き合わせて動くようになった。M&Aが広く行われるように変わった。


でも、霞ヶ関は変わらない。東大法学部卒一色の大家族社会、国の運営者は自分たちだという不変の思考形態。国内外の社会が変わっても、自分たちの考え方で進めようとする発想形態。国際市場や一般社会の変化に連動しない国、にっぽん。


地方分権はどうなったのか。地方分権が進められても外交はもちろん中央。オキナワ問題。頭の良い霞ヶ関の考える結果は、斬新さによる怖さではなく、霞ヶ関家族を守ろうとするための省利省益最優先の発想の怖さ。


私は「小さな政府」が良いとまだ断言できない。若い頃の会社生活がトラウマとなっているのか。今朝の天声人語を読んで、ふとそんなこんなが頭をよぎった。


2015.2.23 朝日新聞・天声人語

 天気図もなかった昔、荒れる海をなだめようと様々なものが海中に捧げられた。平安前期の船旅をつづった「土佐日記」にも、筆者の紀貫之(きのつらゆき)が大荒れの海に鏡を投げ入れるくだりがある

▼いよいよ船が危うくなり、船頭は何か神がほしいと思う物を奉(たてまつ)れと言う。貫之がたった一つの貴重な鏡を泣く泣く投じると、海は鏡の面(おもて)のように静まったそうな。昔読んだそんな話を、沖縄・辺野古の海に巨大なコンクリートブロックが投入されている記事を見て、思い浮かべた

▼サンゴの海に神あらば、ぶくぶく沈んでくる塊に顔をしかめたか。いや、それにもまして、尊ぶべきものを尊ばない政府を嘆いているかもしれない。沖縄が示した民意のことである

▼昨年秋の県知事選では辺野古への基地移設に反対する翁長雄志(おながたけし)氏が選ばれ、暮れの衆院選では4小選挙区とも反対派が勝った。ところが民意は黙殺されて、既成事実が着々と積まれているのが現状だ

▼「民主主義はもうこりごりだ」と言っていたコザ市(現沖縄市)の元市長、大山朝常(ちょうじょう)さんのことが、あらためて思い出される。本土による、本土のための民主主義が小さな島を圧している。そんな悲憤を抱えて16年前に97歳で他界された

▼鏡の話に戻れば沖縄は鏡だと思う。賛同者には厚く、異なる意見には冷ややかな現政権の「民主主義」をはっきりと映す。埋め立てより沖縄との溝を埋める努力が先であろう。一度も会っていない首相がまず知事と会って、そこから始めるほかはない。



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