サムのように生きる・・・  『白い犬とワルツを』

妻を愛し、子供たちを愛し、故郷と我が家を愛し、素朴に生き抜いたサム

切ないまでの哀愁と、爽やかな読後感

『白い犬とワルツを』(新潮文庫)     70を過ぎたら一読を ♡


時間のない人には次。


 樹医を営む中本英助はいつものように妻に見送られて山へと向かった。仕事を終えて、家に戻ってきた英助が見たのは裏庭で倒れている妻の姿だった。急いで病院に運んだが、一時的に意識を取り戻したものの最後は眠るように息を引き取った。40年連れ添った最愛の妻を突然失った英助は失意に暮れる。そんな英助の前に真っ白な犬が姿を現わす。以来、その白い犬はしばしば現われては、少しずつ英助に近づいていくようになる。しかし、なぜか英助が一人でいる時しか現われない。そんな白い犬を英助はいつしか妻の生まれ変わりのように感じ始める……。


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 人生の黄昏(たそがれ)・・・それは、誰にでも等しく訪れるものです。望むと望まざるとに関わらず、老いはやって来ます。体が思うように動かなくなり、物忘れをするようになり、将来への興味が失われて、過去の思い出に生きるようになる。そうして人は、死を迎えるのです。悲しいことですが、生きている以上、この運命を逃れることはできません。

 そうした辛い老境に、配偶者の死と自らの病気が加わったら。

 考えるだけでも、恐ろしいことです。病み衰え、愛する者を失った時、人はどうやって生きていけば良いのでしょう。家の中には、自分一人。子供たちは、皆結婚して、別居している。生きる目的は、もうない。それで、どうして生きていけるでしょうか。

 この物語の主人公は、そんな境遇にある、81歳の老人です。



<ストーリー>

 57年間連れ添った最愛の妻に先立たれた老人、サム・ピークは、子供たちの暖かい思いやりに感謝しながらも、一人で余生を生きていこうとする。歩行器に頼らなければ歩けない足を引きずりながら、かつて州随一と言われた植木の栽培に勤(いそ)しむ日々。しばしば甦る、妻との満ち足りた生活の思い出に、寂寥感を噛み締めながら、彼は淡々と生きていた。

 そんなある日、彼の前に、ふらりと一頭の白い犬が現われる。どこか不思議な雰囲気を漂わせた、まぶしいほど純白の犬である。しかも犬の姿は、彼にしか見えないらしい。隣家の犬も、全く吠えない。しかし犬は、彼が与えたビスケットを食べた。

 彼と犬は、程なく親しくなった。犬は、常に彼の近くにいて、彼が呼ぶと姿を現わした。そして、彼の手から餌を食べ、彼に寄り添い、時には彼の歩行器にすがって、『ワルツ』を踊りさえした。次第に彼は、白い犬を家族のように感じ始めた。

 息子や娘たちも、初めのうちは父親がボケたのではないかと思っていたが、サムが発作で倒れた折、まるで急を告げるように現われた白い犬を目撃するに及んで、薄気味悪さを感じながらも、ようやく犬の実在を受け入れたのだった。


 1973年9月22日。サムは、60年ぶりにマディソンで開催される、高校の同窓会への出席を思い立つ。亡き妻が、もう一度行って見たいと言っていた、二人の故郷。その願いを叶えるため、彼は愛用のポンコツトラックに白い犬を乗せ、旅立った。子供たちには内緒の旅である。彼自身は、まだまだやれるつもりでいたが、高齢の父親が遠出をすることに、子供たちは強い不安を抱いていた。夜明けに出立したのは、そんな子供たちに引き止められたくないという、彼なりの意地でもあった。

 ところが彼は、暗夜のため、道に迷ってしまう。白い犬のお陰で、牧師ハワード・クックに救われたものの、家では彼の『失踪』を知った子供たちが、保安官まで巻き込んで、大騒ぎをしていた。

 そうとは知らず、サムはクックに送ってもらい、翌朝やっとマディソンにたどり着いた。

 かつての初恋の女性、マーサ・ダナウェイ・カーとの、60年ぶりの再会。互いに連れ合いをなくし、老いた二人の会話は、セピア色の写真を見るような懐かしさの中にも、寂しさがにじみ出ていた。

 「もう、二度と会うことはないでしょう」

 別れ際、そう言ったマーサに、サムは応えた。

 「会えるさ。100まで生きよう。100にな

ったら、同窓会をやろう、君と俺とふたりで」

 そうして彼は、懐かしい町を後にしたのだった。

 また、元の淡々とした暮らしが戻ってきた。その後サムは、妻の面影を心の支えにして孤独に耐え、7年間を生きた。その間、残っていた仲間の何人かが相次いで亡くなり、そのたびに彼の寂しさは募った。


 1980年、晩春。彼は、自分の体の中に巣食う病魔の存在を知った。余命数ヶ月と診断された彼は、その運命を受け入れ、自分の死んだ後のことを子供たちに託す。ガンとの苦闘は、彼を極限まで消耗させ、ついに彼にも『その時』が訪れた。

 死の前日、彼は子供たちに言った。

 「おい、あれはお前たちのママだったんだ・・・戻って来てくれてたんだよ、俺を見守るために」

 白い犬が妻のコーラであったことを、彼は信じて疑わなかった。「犬は、俺の墓にいる」、そう言い残して、彼は息を引き取った。



 物悲しいストーリーでありながら、読後に残る一種の清涼感は、サムの潔い生き方に、読み手が共感を覚えるからでしょう。妻を愛し、子供たちを愛し、故郷と我が家を愛し、素朴に生き抜いた彼、サム・ピーク。作中で繰り返し語られる、妻・コーラの思い出と、彼の独白は、読者の心を強く打ちます。

 幸せな57年間の結婚生活。その思い出を拠(よ)り所にして、孤独な日々に耐え、最後は従容(しょうよう)として死を受け入れた、彼の潔い生き様は、男なら憧れる人生かも知れません。1997年に娘を、2005年に妻を、相次いで亡くした私にとって、この物語は、ひどく身近に感じられ、ゆえにこそ、作品から受けた感動も、計り知れないほど大きなものでした。


 『白い犬』とは、何を意味しているのでしょう。解説を書いている、兼武 進氏によれば、それは『50年以上も続いた結婚生活の化身』であるといいます。主人公サムが、しばしば子供たちに尋ねたように、作者は読者に、「あなたにはこの『白い犬』が見えますか。見えるような生涯を送ってきましたか」と問いかけているのだと、氏は指摘しています。

 私も、氏の意見に賛成です。『白い犬』は、『真実の愛』の象徴ではないでしょうか。だからこそ、見えた人と見えなかった人がいたのでしょうし、形容し難いほどの白さを持っていたのだと、私は思います。


 この作品は、1992年度・1993年度のABBY賞(アメリカ書籍販売業者連盟の年間推薦図書)候補となり、1993年にはテレビドラマ化されて、全米ネットワークの秋季最高視聴率を獲得しました。わが国でも、1995年と1997年に、NHKで放映されています(兼武 進氏の解説より)。

 テリー・ケイ(1938~)は、アメリカ・ジョージア州生まれの作家です。最初は、映画やスポーツの評論などを執筆していましたが、その後小説も書き始め、1990年に発表した『白い犬とワルツを』がヒットして、全米で有名になりました(Wikipediaより)。


 「大人の童話」・・・兼武 進氏が、この作品を評した言葉です。この作品が持つ、切ないまでの哀愁と、爽やかですらある読後感は、50歳を過ぎた方には、強い共感と感動を呼び起こすことでしょう。その意味で、『白い犬とワルツを』が大人の童話であるという指摘は、当を得ていると思います。私が、この作品をファンタジーのジャンルで紹介したのも、ロバート・ネイサンが唱えたファンタジーの定義に、無理なく当てはまっているからです。

 年老いたら、私もサムのように生きたい。

 心から、私は思います。老いの入り口に立った私にとって、この物語は、次第に身近なものとなりつつあります。この本を座右の書とし、自分の生きてきた道を振り返って、私もまた、これからの生き方を考えてみたいと思います。

 老人が主人公の物語ですが、若い方々にも読んでいただきたい、珠玉の物語です。是非ご一読いただくことを、お勧め致します。


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